自分はなぜ生きるのか
今日シャワーを浴びている間に自分はなぜ生きるのだろうかと考えた。 そこでの思考とその続きをまとめる。
生きたいという欲求について
「生きたい」と思って生きている人はどれくらいいるのだろうか。世の中の大半の人はなんとなく生きていると思う。自分もそうである。日常の中で「生きたい!!!」と思うことはあまりない。なぜならそれを今享受しているからであり、すでにあるものを維持したいという欲求はそれが脅かされる時でない限り浮かばない。例えば今ごはんを食べているのに「食べ続けたい」という欲求は食事を邪魔されない限りは浮かばないし、「ゲームを続けたい」という欲求はやらなければいけないこと(課題や雑事)を思い出すまでは思いつかない。
しかしたまに「生き続けたい」と思うことはある。それはいつかこの人生が終わることを考えた時である。この生きている状態を脅かす寿命という存在を考えた場合には、ゲームしている時に課題について考えた時と同様に、欲求がよぎる。
そんなことはどうでもよく、とにかく「生き続ける」という欲求を叶えるためには不死の仕組みを作るか待つかしかない。
自分は「生き続けたい」派だが世の中には「いつかは死にたい」派の人もいる。たしかに全体で見ると古いものをなくして新しいものを増やすというのはよく感じる。既存のものをより良くするという考えもわるくないとおもうが新しい風がなくなる。無限にリソースがあればいいのにな。
し続ける欲求は脅かされる脅威について考えた時に発生するといったが例外で二度寝が考えられる。これは身体的に求める高い欲求だから起こると考えられる。ゲームプレイを脅かすものもなく、長時間プレイをしていて、それでも満足しない場合は、高い欲求と考えられるため、身体的に求めてしまうゲーム依存症となっているかもしれない。こわいね。
生きたいという欲求について2
世の中のほとんどなんとなく生きていると思うが、死にたいと思って死んでしまう人もいる。それは相当嫌なことがあり、生き続けたいという欲求より生き続けたくないいう欲求が強くなってしまったのだろう。果たしてそれはどの程度のことなのか。例えば少し嫌なことがあってすぐ死んでしまったら人はすぐ絶滅してしまう。
だから「生きている現状」全体をマイナスであっても「生き続けたい」と思っているはずである。それには他の要素にプラスになるの理由があると考えられる。それは「未来への期待」かもしれない。欲求を満たすことで人は幸せになれることを知っているため、現状マイナスであっても、例えば空腹を満たす幸せを求めてしまう。
でもそれは多分違う。例えば児童虐待されていたとしてもその子供はすぐに死のうとは思わないし、これから幸せになれるかもしれないなんていう期待も持っていないだろう。生き続ける欲求は身体的な本能からくるものなのだろう。
生き続ける欲求が身体的な本能だとしたら、自殺してしまう人はそれを上回る相当のマイナスを感じているのだろう。逆に他のひとは(本能)+(多少のプラス)によって生き続けていると考えられる。その多少のプラスというのはやはりどれだけ幸せを感じるかということである。
幸せとそれを増やす方法について
人がどこで幸せを感じるかは人によって異なる。甘いものが好きな人は甘いものを食べているときに幸せを感じるが、苦手な人はそうではない。また甘いものを知らない人はそれを食べることに幸せを感じるかどうかもわからない。他に単純に甘い方が好きならば同じ甘いものでも、微糖より糖分たっぷりのほうが幸せを感じる。つまり幸せについてまとめると以下が重要になる。
- 閾値を越えるか(自分は幸せだと感じるか)
- 領域に入っているか(自分が知っているか)
- 重みが高いか(幸せ度は高いか)
これを踏まえて自分はどうすれば良いか考える。
- 良さを見出す
- 未知の領域に手を伸ばす
- なにに幸せを感じるか分析する
ということで次は幸せをどこに感じるかというのを考えたいと思う。